2019
Oct 24
(Thu)

景山民夫さんを偲んで


故・景山民夫さんとは「フルハウス」で一緒だった。
私は脚本家を目指すADで民夫さんは売れっ子の放送作家だった。
民夫さんは一人でふらっと旅に出る。インドネシア、アマゾン、ボルネオ。抱えている番組の台本は「おい、川井。代わりに書いておいてね」と無責任に私に押しつけていた。
「川井」
それは私の旧姓。私は何を隠そう女房の眞弓と結婚するにあたり初志を捨て、「西ノ宮家」に入った婿養子。
『(注)その顛末はある雑誌の記者が「西ノ宮 潔」について取材したことがあり「ノーマンロックウェルハウス 西ノ宮 潔」で検索』
さすがの民夫さん。いち早く私の資質に気づき、「いい弟子ができたよ」と、うら若き私をおだてのうのうと代筆させていた。ギャラのおすそわけはなく、というより忘れていた。

そんな仲だったから民夫さんが買ってきた消防車に水を満タンにして、ある夜、一緒に赤坂の裏通りのビルに放水しに行ったこともあった。もう40年前のことだ。
民夫さんはその後不可解な死を遂げてしまったが、民夫さんの天分は私がしっかりと受け継いでいると自負している。

実際、私は明日から旅に出る。
「私もふらっと旅に出ますよ。10月25日から31日まで、私、会社におりませんよ。携帯なんて家に置いていきますから」
とは歯切れのいい文句だが、民夫さんには追随できぬ事情がある。
確かに日本から遠く離れた場所で、赤道近くでもあり、なのでなのでなので、青い空と海のはざまで、Tシャツとビーサンを椰子の木が影を落とすビーチに置きっぱなしにして、昼にシュノーケルさえつければは海水魚だのイルカだのアオウミガメだのと戯れ、夜には満天の星空の下でラム酒の酔いにまかせて、カタコトの現地語でエスコートのきいたナンパだってできるのだが、さてさていかがしたものか、女房の眞弓が一緒であるのだ。
女房の眞弓ときたら小学校・中学校・高校の同級生で、小学校に上がる前の6年間と大学の4年間の都合10年間を除けば、53年間、だいたい半径500m以内の同じ空気を吸っていたくせに、未だもって私から離れたがらない。

「一人でふらっと旅に出ますよ」
こう言い切れないのが、直木賞作家・景山民夫との違いである。

2019.10.24 Kiyoshi Nishinomiya