2019
Sep 17
(The)

倒れたモミの木の周辺で


先週の台風15号で会社のモミの木が倒れた。

植栽してからちょうど10年目の木だったが所詮は針葉樹。しかも葉の裏が白く「ウラジロモミの木」という成長が遅いという種類。勢いには欠けていたがそれでもクリスマスともなれば行き交う人たちの目を引いていた。とりわけ近所の犬たちの「たちしょんべん場」には格好のモミの木だった。

のこぎりで幹から撤去し10分ほど切り株を見ながら、次は広葉樹、もしくはパームツリー、暑さに強い樹木を植えなおそうと考えていたら、マーキング常習犯の「ハル」という名の雑種犬を連れた三橋寿春(みつはしとしはる)さんが通りかかって声をかけてきた。
寿春さんはもう85歳になる。以前は網元。5年前、廃業するまで茅ヶ崎屈指の地引網漁師だった。

ちいちゃい頃から親を手伝って浜で焼きに焼かれな、日焼けはもう抜けねぇんだ。そういつだか言っていたけれど、よれたランニングシャツからひょろりと伸びた腕は確かに醤油を煮しめたような色をしていたが、それよりも増して近くのコンビニで買って口にほおばっているコロッケのソースに目がいった。
「オメよ。オメよ。何見てんだ」
「モミの木が倒れました。この夏一番の事態です」
ハルは相変わらず片足を上げて切り株にしょんべんをかけていたが、寿春さんは口の周りのソースをぺろりと舐めると、思いがけない言葉を出した。
「オメよ。オメよ。フェリーニの『ラ・トラーダ』のこと言ってんだべ、1957年作品の。ありゃあ、オメよ。『道がすべて』じゃねぇよ。シンプルに『道』。そんだけの邦題だんべよ」
なんと、このくそじじい。私のホームページを見ている。なんで?
しかも私のいい加減な記述に高度な角度から指摘をしているじゃありませんか。なんで?
私は平然を装うことしか出来なかったわけで。
前回に載せたホームページのブログ、スタイリスティックスだのフェリーニだのハウンド・ドッグだの。かくかくしかじか説明を付け加えても、寿春さんの顔は曇ったままで。
なんだかこの爺さん手ごわいじゃないか。話題を変えよう。
「この犬の名はハル。寿春の『はる』。分身のような名付け方ですね」
充分にフェリーニから話題を遠ざけたつもりが、まずかった。
「オメよ。オメよ。Hal 9000(ハル きゅうせん)知らねぇか。スタンリー・キューブリックの。1968年製作『2001年宇宙の旅』に登場する人工知能を持ったコンピューターよ。オメ、知らねぇか。賢いんだこの犬も」
33℃の暑さのせいもあってくらっと来た。雑種犬の名のいわれはとんでもないところにあった。

次のマーキング個所を目指してハルが飼い主を引っ張り始めたもんだから、わずかに私の窮地もそれた。
「オメよ。オメよ。こんなとこでぼーっと立ってたら、おつむテンテンになっちまうべ。わりぃこと言わねぇから早く家ん中へぇったほうが、ええよ」
そう言われ切り株を後にした私の背中に寿春さんが一声かけた。
「オメよ。オメよ。またここに木なんかここに植えたって駄目だ。おらんとこのハルばっかじゃなくここいら近所の犬の、またしょんべん場になるべさ」
こうも見透かされては返す言葉も見つからないが、それでも振り返ったらダメ押しの一言がきた。
「犬のしょんべんはpHの数値は5~8の間で、平均6.5程度の弱酸性が正常範囲とされているけどよ。化学式で言うとC6H3O2MG12なんだけどよ。それがオメよ。一匹につき25cc、一日に40匹、合計で1000cc。それをオメよ。毎日毎日ひっかけらけてみな。どんな木だって枯れるべよ。オメよ。そんなことも知らんのけ?」
私の頭の中は、中は、中は、めっちゃ混乱を極めたことは言うまでもない。

2019.9.17 Kiyoshi Nishinomiya