2013
Jan 28
(Mon)
この頃のニュースを見て
大変な事件に巻き込まれた日揮。そのニュースが連日報道されている。 あまり知られていなかった会社名を一般の人が知るようになった。私の家内もそのひとり。
「日揮はガソリンスタンドから始まったというじゃないの。うちの会社も30年前にはガソリンスタンドをやっていたのに躍進ぶりがちがうじゃないの」
日揮。日本揮発株式会社。1928年、製油所の経営を目的として設立された。アメリカのユニバーサル・オイルのプロライセンス購入をはじめとして石油精製プラントを建設してきた。
茅ケ崎の南湖交差点でガソリンスタンドを開いていたのと訳が違う。
そう家内に説明した。
一方で、私、報道を見ていてふとわいた疑問。アルジェリアのテロリストの目的は何だったんだろうか。
家内も同じ疑問を持ったようだ。
「アラブの盗賊は何を盗みたかったわけ?」
構図を単純化して知っている語彙だけで考える思考は、まだ続いている。
2013.1.28 Kiyoshi Nishinomiya
2013
Jan 26
(Sat)
カバードポーチの玄関
鈴木さんの家が竣工する。
引っ越しは今度の日曜日に決まった。最後の仕上げにおおわらわ。
鈴木さんの家はカバードポーチの玄関の家だ。アプローチ階段を上り、渡り廊下のように長い屋根付きのデッキ、これをカバードポーチと言うんだけれども、ここをわざわざ通って玄関に入る。家から出入りするのにちょっとした儀式のようなアクションすら伴う。
敷地のもっと手前に玄関を位置した方がいい、いや、こういう手順を踏んで入っていただきたい。一級建築士の細井ちゃんと、二級建築士の私でさんざんもめた。どっちがどういう意見をいって軍配が上がったのかはもうすっかり忘れてしまったが、行司は施主の鈴木さん。こういうスタイルに落ち着いた。
行司、軍配といえば横綱大鵬。先だって天国から呼び出しがありました。
2013.1.26 Kiyoshi Nishinomiya
新しい首相になってわずか一ヵ月。いきなり10円差の円安ドル高となった。アベノミクス、安陪バブルと揶揄されるが・・・。
菅さんから野田さんに変わった時、野田さんはたくましく見えた。
「どじょうはどじょうの持ち味があります。金魚にはなれません」
アメリカ大統領就任演説さながらの、こころに響く演説だった。大震災、デフレ、原発問題。
「ルックスはこのとおり。どじょうのように泥臭く、国民のために汗をかきます」
地道だけれど確固たる施策を繰り広げてくれる、そんな安定感を覚えた。だが、案の定、野田内閣も一年しかもたなかった。
それに比べ、敗者復活戦からひょろひょろと浮上してきた安陪さんは、どこか頼りなく思えた。一度首相の職務を放りだした人、由緒正しき御家柄らしい端正な顔立ち。野党時代、必死にこらえた谷垣さんの方が苦労人に見えた。
ところが、ふたを開けたら10円の円安になった。
安陪さんはひょっとしたら吉田茂同様、名を残す首相になるかもしれない。
2013.1.24 Kiyoshi Nishinomiya
2013
Jan 23
(Web)
私の友人から、
私の友人から、先週の1月19日、帝国ホテルで行われた「郷ひろみ」の結婚披露宴に招待された、と電話があった。
友人夫妻はただいま南青山に住んでいる。とてもリッチな、おそらく友人の中では一番のお金持ちなんじゃないだろうか。年齢は私と同じ56歳。職業は・・・、これを明かすと「郷ひろみ」共々個人情報を明かすことになりかねず、ないしょ。
その友人曰く、「スリーAって言われているらしいです。青山、赤坂、麻布は。山手線の音が聞こえない優れた環境の住宅地でした。とても心安らぐ」
なんとも都内ならではの話ではあるが、友人の言葉からは自慢話としてのいや味は感じられない。
その友人に聞いてみた。
「下世話な質問なんだけれども、そういう芸能人の披露宴に包むご祝儀は、いかほど?」
すんなりと明かしてくれたが、これもここに書くにははばかれる。ないしょ。夫婦二人で海外旅行に何度も行かれる額だ。ありえないが、もし仮に私がこういう披露宴の招待を受けたら、いや、仕事が、体の具合が、親の介護中で、とかなんとか理由をつけて丁重にお断りせざるを得ない。
「2曲歌いました」
友人が続けた。
「新婦のたってのリクエスト。郷ひろみさんは2曲歌いましたよ」
「へぇー。たったの2曲ですかい。ずいぶんとお高いディナーショーですなあ」
会話が途切れた。
まずい。
30年来の仲だが、どうも、こちらの御里が知れたらしい。
2013.1.23 Kiyoshi Nishinomiya
2013
Jan 21
(Mon)
すこし愛して、なが~く愛して・・・
「冒険者たち」は、アラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラとジョアンナ・シムカスだけではない。
34年前の私だって冒険者だった。大学3年生の冬、学連のスキー部生活を最後に翌年からは社会人となる身。虎視眈々とその策略を練っていた。
脚本家になるつもりで大学に入った。前略おふくろ様、傷だらけの天使。倉本聰や市川森一が名作を発表していた。私も、まんまと、大学のゼミの教授の紹介でTBS系「世界の子供たち」という番組のナレーション原稿を書き、一話11万1111円のギャラ(源泉引かれて10万ちょうどになる)を得るようになっていた。
一方で、コピーライターもいいかもしれん、糸井重里なんか一行書いて1111万のギャラだというじゃないか。さっそく「宣伝会議」に応募してみると、入選もした。
そうやってやまっけのある冒険者に、ちょっと天狗になっていた。
ところが、大原麗子のサントリー・オールド、レッドのCMには打ちひしがれた。
「すこし愛して、なが~く愛して・・・」
博報堂のCMプランナー藤井達朗の手によるコピーだという。こういう域に達するには、どれだけの轍を踏み続けなければならないんだろうと、腰から力が抜けた。私、冒険者には向かないかもしれない。
卒業すると、紆余曲折の末、不動産業、建築業に落ち着いた。
30余年の月日が流れたところで。
最近、あれは16世紀のイギリスのことわざと知った。
Love me little,Love me long.
そういう格言があったんだ。
してやられた。
藤井達朗は、加えて大原麗子もCMを演出した市川崑も今や故人だが、冒険者は初めから確信犯を気取る天分がなければ、なるになれない。
2013.1.21 Kiyoshi Nishinomiya