2013
Feb 12
(The)

ダミーの窓


 井田さんのお宅は3階建て。
 3方向に隣接する家がない。道路、河川、駐車場。開放感がある一方で、敷地が細長い。間口はあるけれども奥行きがない。窓を多用したいところでも、そこの内側は収納クローゼット。窓をつけては収納スペースがなくなってしまう。
 ところが、窓を我慢してしまったために、外観がのっぺり。表情がなくなってしまった。
 こういう時、一級建築士の細井ちゃんと二級建築士の私は、ルーパーを使って閉じられているように見える窓を作る。さも、そこに窓があるように見せかける。ダミーの窓。
 東京ディズニーランドの建物からヒントを得た。

2013.2.12 Kiyoshi Nishinomiya

2013
Feb 08
(Fri)

ダークナイト ライジング


 この頃、私が仕事の合間に聴いているCDは「ダークナイト ライジング」。去年の夏に公開されたバットマン・シリーズのサントラ盤。
 ダークナイト。闇の騎士。着せられた濡れ衣。逃げまどうバットマンを重厚に演出するBGM。
 迫りくる危機感。得体のしれない恐怖。絶望的な結末。
 そんな臨場感が耳から伝わると、健全な住宅建築の仕事が、一気に銀行襲撃計画と同じくらいの゛悪事゛に変わる。
 ハードボイルドな自分を気取れる。
 しかし、あまり聴きすぎると、暗く暗く沈んできて゛ウツ゛になりかねない。劇薬扱いする必要がある。

2013.2.08 Kiyoshi Nishinomiya

2013
Feb 07
(Thu)

1940年代のコカ・コーラ広告


 ジョイマークデザイン社長・下山好誼(しもやまよしみ)さんは世界的コカ・コーラコレクターとしても、つとに有名。
 私も多少、コカ・コーラ関連品を持っている。
 その中でもお気に入りなのが、チリス・H・ベイヤ―著「Coca-Cola Girls」。7-8年前、南青山の嶋田洋書で見つけた。300ページすべて女性を起用したコカ・コーラ歴代の広告。
 1886年、ジョージア州アトランタで発売開始されたコカ・コーラ。翌年にはもう雑誌広告の掲載が行われるようになる。1960年代までの広告はイラストで描かれていた。女性もコカ・コーラもロゴも。
 その時代時代の美女とファッションがが反映されていておもしろいが、1940年代の第二次大戦下のCoca-Cola Girlは、ミリタリー・ルックで登場する。

 コカ・コーラの成分は98%が水。2%がアトランタ本社、ザ・コカコーラ・カンパニーの最高幹部しか知ることができない秘密の成分。15種類の香料、スパイス、柑橘類で成り立っているというが、それもさだかではない。
 この2%のレシピを世界のボトラーズに売るのがザ・コカコーラ・カンパニーの仕事。
 
 広告イメージは常に常に時代に寄り添ってきた、味よりも。
 1940年代の第二次大戦下のCoca-Cola Girlも軍服で、兵士に”Let’s get a Coke” と促進する。
 ところが、70年も前の広告なのに、私もなぜかその美女たちに挑発されてしまう。
 コカ・コーラは創業以来120年余り、2%のレシピだけで稼ぐ魔法の商売をする会社だ。 

2013.2.07 Kiyoshi Nishinomiya

2013
Feb 06
(Web)

七里ガ浜K邸


 神奈川県鎌倉市七里ガ浜のK邸は、一級建築士の細井ちゃんと二級建築士の私が苦心惨憺して設計した、思い出深い家だ。
 建築の敷地は家の最高高さが地域条例により8mしかとれない場所にあった。
 なのにKご夫妻のご希望は、3階建てで、しかも、屋上には広々としたバルコニーがあって・・・。どの階からも相模湾が一望できることがリクエスト。実際、その場所は江ノ電・鎌倉高校駅の坂の上にあり、人もうらやむほどの眺望に恵まれていた。
 リクエストをまともに足算をしていくと12mくらいの高さになってしまう。それを8mまでの高さに納めなければならない。
 各階の高さを縮めましょう、などと細井ちゃんの過激な発想もあったけれども、やればなんとかできるものだ。リクエストはぴたりと納まった。
 2009年の春のこと。もう、4年も経つわけですか。早いですなあ。
 4年もあれば次のオリンピックはくるわけで。大学は卒業できるわけで。
 これから4年経ちますと、おお、私は60歳。還暦ですよ。

2013.2.06 Kiyoshi Nishinomiya

2013
Feb 05
(The)

ハイファイセット


  もう35年以上も前のこと。
 私が一浪して大学受験を終えると「赤い鳥」は「ハイファイセット」になっていた。
 「竹田の子守唄」「翼をください」などの曲は「卒業写真」や「冷たい雨」に代わっていても、女性ボーカルのあのアコースティックな柔らかい声はそのままだった。
  小田和正が稀代の美声の持ち主と呼んだ女性ボーカルは、山本潤子の名と知ったのは、ずーと後のこと。ハイファイセット解散後だった。
  入学当初、私たちはアイビーを気取る事を原則としていた。ケネディカットのヘアースタイル。ボタンダウンのシャツ。靴はコインローファーじゃなくっちゃいけない。
  朝、池袋駅ですれ違ったアイビーのとびっきりかわいい女の子は、見れば洋子ちゃん。同じ高校のひとつ下の後輩だった。
 そりゃ、あっちは「あっ!」っていうし、私は「おっ!」っていいましたよ。偶然じゃなく当然の神様のお引き合わせだよね、こういうの。
 へえー、現役で立教に入ったんだ、文学部なの。僕は江古田の芸術学部。高校じゃ先輩後輩だったけど、あははっ、同級生だね、これからは。
 
 その一ヵ月前。私は雄司とバスケ部の後輩から「卒業写真」を借りてきて見ていた。
 ひとつ下の女子は粒ぞろいだねえ、おまえ、3人選ぶとしたらどの子?
 そのベスト3に洋子ちゃんは入っていた。
 
 朝の池袋駅での立ち話は、弾んだ。
 「何のサークルに入るの?スキー部に入るの? えっ!偶然だね、僕もさ、昨日スキー部に入部の申し込みしたんだ」
 事実よりペアリフトに座る二人の想像が先に優った。
 学校に着くとすぐにスキー部の部室に行き、入部の手続きをとった。
 家に帰るとあらためて「卒業写真」を見た。やはり見えない糸で結ばれていたわけじゃないか、ねぇ。
 一週間後、バスケ部の後輩から電話があった。
 「そろそろ、卒業写真、返してください」
 あっ、わりぃ、わりぃ。もう返さなきゃいけないと思っていたところだ。
 「そうですか。それと、洋子ちゃんのことなんスけど・・・」
 なぁんだ、もうおまえ、おれたちのこと知ってんのか。早いねぇ。
 「アーチェリー部に入ったそうです。立教は池袋の東口で、江古田は西口だから、うまくすれば4年間会わずに済むって、真理子が聞いたそうです」
 その後、十年たってもスキーをする時は、ハイファイセットの「卒業写真」が頭の中を流れていた。

2013.2.05 Kiyoshi Nishinomiya